Lv.6 最近ハマったもの
あと1週間ほどで、外出自粛から3か月が経ちます
現在もアホみたいに家にいます
この期間中、在宅コンテンツをひたすら消費していました
prime video や TikTokなど色々ありますが
このたびYouTubeにハマりました
その中でも一番ハマったのは、QuizKnockです
知識量もすごいんだけど、まず皆さんの人柄の良さがあふれ出てる
視聴者に伝わらない例えツッコミとかとてもすこ
視聴者の方々はいわゆる推しメンみたいな人を作ってるのかな
僕の推しメンは、河村さんとふくらさんです
ここがいいんだよねー!って言いたいけど、言葉が出てこん、でもすこ
どの企画をとってもおもしろいのがすごい
突然ですが、お気に入り動画を紹介します!
1.東大生が未知の言語で書かれたクイズに挑戦!!!
これ問題作成するのも凄すぎない?
言語を作る発想もすごいし作れてしまうのもすごいし、すごいしすごい
2.【心理戦】嘘と権力のゲーム『クイズ!ペンタゴン2』
頭のいい人の心理戦ってとてもおもしろい
心理戦系統だとふくらさんがとても輝いて見える(これは別)
特にこの2つ!!
まだまだ見てない動画が山ほどあるので、漁りたいと思います
頭いい人って人に伝えるのがとてもうまくて、誰にでもわかるように解説できるのがすごいと思う、めっちゃ憧れる
ひたすらリスペクトですね!こうなりたい!
おわり!
LV.5 死
早いものでLv.5に到達しました!
たった5じゃねえか!って思うかもしれませんが、
「三日坊主の申し子」こと僕にとってはかなり幸先良いです。
今までに、ランニングや筋トレ、インスタ投稿、早起きなど様々なことに挑戦したわけですが、これが中々続かない...。3日も続けばいい方で、典型的な飽き性です。
元々、5つ目のブログを書いたら友人にも見てもらおうかななんて思ってたりしたのですが、まだ慣れず、試行錯誤中なので、いったん保留とします。笑
個人的にはLV.4のブログは気に入っているのですがいかがでしょうか。
初めて星をつけていただいて、嬉しかったです。
今日は書きたいテーマは特になく、
筆を走らせているうちに何か思いつくかな、ということで書いています。
はてなブログの機能に「お題スロット」なるものを見つけたのですが、「私の〇〇」とかそういうものより、「今週のお題」のように、自分と脈絡のない単語を渡されて、それに関してつらつら書いていく方が自分は好きです。
はてなブログにちなんで「ハテナ」をテーマにしましょう。
調べたのですが、ハテナを品詞分解すると
はて/な になります。
当惑したときの「はて、、、」と
助詞の「な」が合わさり、「はてな」
「はてな」の語感はどこか可愛くて僕は好きです。
語感でいえば「あくび」とかも可愛げを感じます。
ペットショップで売ってたら買ってしまいそう。
さて、そんな僕の「はてな」について書いていこうと思います。
『死んだらどうなるの?』
予め断っておきますが、決して病んでないよ!
自粛期間に一人で家にいると、哲学的な思考に耽ってしまうというあるある、その中でも圧倒的ナンバーワンを誇る「死んだらどうなるの?」という疑問について、ふと考えてしまいました。
まず、4つの派閥が存在すると思います。
・天国や地獄に行く
・亡霊として、この世界にさまよう
・生まれ変わる
・何も残らない
現実的にモノを考えると、何も残らない、というのが妥当だけど、そんなつまんない話をしたいわけじゃないんです
ていうか「死んだらただの物質になるだけだろw」とかいうやつも故人を偲ぶときには空見るじゃんね、本当にそう思ってるなら墓の方向でも見るだろ!
「死後の世界」的な何かがあるかは知らないけど、個人的にはそういうものがあってほしいと思うし、亡くなった身内の方はそういう楽園的な場所にいてほしいと思う。ちなみに、ディズニー映画『リメンバー・ミー』、めっちゃ好きで、まさにああいうのイメージしてる
じゃあ自分が死んだらそういう場所に行くかと考えたらそんなことはなくて、死んだ瞬間新たな生命に生まれ変わる気がする。ちなみに僕の前世はすごく可愛いネコだったんだけど、今人間をやらさせて頂いてて思うことは、来世は違う生命になっている可能性も大いにあるということ。来世であのきっしょいセミだったらどうしようと、できれば可愛い日本人の女の子に生まれ変わってTikTokでバズりたいのですが。
日常的に「死」について考えることはほとんどないけど、死後のことに期待するということは、死を漠然と恐れていることに他ならなくて、いつ終わるかもわからない限りある人生を充実して楽しもう!という結論にいつも至ります。待って、今めっちゃハイデガーみたいなこと言ってない?『存在と時間』もいつか読みたい。
死生観はやっぱりおもしろいし、最高の暇つぶしになるね。
ちなみに皆さんは、こんな風に死にたい、というのはありますか?
苦しくない死がいいのは前提として、できる限り多くの友人に惜しまれるような、そんな死がいいです。一番の理想は、全く知らない誰かを助けて事故で即死、お葬式で大泣きする友人たちを、亡霊となって陰から見つめていたいです。幸い、非常に友達に恵まれているので、皆さん大泣きしてくれるでしょう。というか大泣きしない人はお葬式なんて来ないでください。
勘のいいひとは「お前、さっき死んだら即時に生まれ変わるって言ったじゃないか!どういうことだよ!」と思うかもしれません。
うるせえ!!!!すべてが都合よく矛盾のない世の中だと思うなよ!!!!
逆に一番嫌な死は、誰にも気づかれない死、です。孤独死とか絶対嫌です。
溺死も嫌だし、刺されるのも嫌だ、少しでも苦しいのは本当に勘弁してほしい。
自分の葬式は楽しい雰囲気にしたい。
もちろん大泣きはされるよ、されなきゃ困る。
でも、棺桶の中にスピーカを忍ばせておいて、「みなさんが泣き終わるまでに15分もかかりました!もう先生待ちくたびれました!!」なんてセリフを録音しといて、ここぞ、というタイミングで流してもらったりとか、「それでは聞いてください、お坊さんで、お経」って言ってからお経に入るとか、そういう感じにしたい。
まぁそのためには自分が死ぬ前にいろいろ手配しなきゃいけないんだけどね。
こういうプランは僕の友達とよく話すので任せたいと思います。親にはスマンが。
今日はこんなところでしょうか。
何もなく書き出した割に、それなりの内容になった気がします。
あまりハイペースで更新すると飽きてしまいそうなので、適度に、ひとまずはLv.10を目標として、頑張りたいと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました!
Lv.4 傘 en casa
今週のお題「傘」
沖縄では梅雨明けしたそうですが、
関東では数日前に梅雨入りしました
昨日今日は晴れたようで、また、かなり暑かったようですが、大学生の僕はずっと家にいるので、あまり関係ありません
at home をスペイン語でen casaというので、韻を踏んだ次第です
雨は、小さいころから嫌いでした
大きな原因は靴下
靴下の濡れ具合と気持ちの落ち具合は比例するし、
くっさいんだよね、足が。
上履きを履いて蒸れたときの生温かさも無理だし、
下校の時また靴を履くと
「何乾いてること期待してんのw 濡れてるに決まってんじゃんw」
と嘲笑されている気がして、慣れるまでの間も
「ねぇ、冷たい?w 嫌な感じ?w」
と靴に言われているような気がして、無理
まぁ後半は虚言ですが。
傘ということで、書きたいことはいろいろ出てきます
相合傘、というのはあまり得意ではないです
入れてもらう側に限った話ですが、日本人はみんな相合傘をするときに自分の肩が濡れても、相手を優先するじゃないですか。そうすると、僕の落ち度で傘を忘れて、本来なら100%彼が傘の下にいるはずなのに、50%どころか、40%しか入ってないわけで、これに関しては、ただただ申し訳ないと思います。
君の傘なんだから君が 濡れないように使えばいいし、不意に5秒間雨にさらされても僕は全く文句は言わないのに...
逆に、僕が傘を持っていた場合ですが
人より小雨の範囲がガバガバなもので、雨の粒が小さければ、頭皮に雨がたどり着くまでは真夏のスプリンクラーと大して変わらないので、特に気になりません。
雨粒が大きければ、すぐ傘をさすけどね!
さらに、一緒に入るより一緒に濡れて帰りたい、という思いも重なり、小雨の時は「傘、入る?」ではなく「一緒に濡れようぜ」という言葉が出てきてしまうので、今思えば、友人は僕のことをどう思っていたのか気になります...
ここで、前期の哲学史の授業で「毒蛇に2人で噛まれました。解毒剤は1つしかありません。病院に行く時間的余裕はありません。どうしますか。」という問いを思い出しました。ちなみに、あなたならどうしますか。
一般的な学生は「ジャンケンをする」や「2人で半分ずつ分ける」と回答しましたが、僕はというと「解毒剤を捨てる」と回答しました。
他の学生は、1人でも助かるか、あるいは2人で助かろうとするか、というものだったのに対し、僕は2人の命を諦めたわけで、次回の授業でフィードバックとして取り上げられたときに、恥ずかしかった気持ちと、助かる選択肢が頭に浮かばなかったことに驚きました。
中途半端にプラスよりは、一緒にマイナスに振り切りたい、という僕の心理的傾向なのかもしれません。
もしかしたら、自己中かも。
ただ、将来恋人が出来たときは話は別で、さすがにすぐ傘に入れるし、それこそ、相合傘も醍醐味でしょう。
最寄り駅で、中学生カップルが相合傘していたのを思い出しました。2人とも傘を持っていたのに。微笑ましいなあ、と思っていたら、すれ違いざまに女の子から物凄い形相で睨まれました。これだからカップルは嫌い。
話は変わるけど、
外出中に雨が降ってきたら傘を買わなくてはならないし、あるいは、盗まれやすいものでもあるから、「傘」業界はいいところに目を付けたなと羨ましくなる。
これは雨が降るたびに思う。
あと、傘はそれなりに強度を重視してないとも睨んでいる。本当は絶対に壊れない傘を技術的には作れるんだけど、そうすると傘の売り上げが落ちるから、あえて壊れる設計にしているんじゃないかと。「切れない電球は作れるけど作らない」と一緒だと、睨んでいるわけです。ずいぶん前だけど、ビニール傘をさした瞬間にビニールの部分が飛んでったこともある。あれは恥ずかしかった。
日本で、1年間に流通する傘は、1億2000万本だそう。大体人口と一緒だから、1人あたり1年に1本の計算。
おい待て、おかしい。僕は1年に5本は買っているぞ。
そう、傘を盗んでいるだけで生きている奴が絶対いる。
傘を買って、5分で盗まれた記憶がよみがえる。絶対許せない。
何が「カサは天下のまわりもの」だよ。
君が盗むから負の連鎖は続くのだと、声を大にして言いたい。
もちろん、その日2本目の傘を買った。
他にも、折り畳み傘の話とか、傘の漢字と傘寿とか、高校時代に傘の製造を委託したらとんでもないことになった話とか(怒られそう)、いろいろしたいけど、あまり長すぎるのもな~と思ったので、終わりにします。
まぁ現在en casa状態なので傘を使う機会は少ないかな
一年の中で一番嫌いな季節を逃避できるので僕的にはラッキー!
Lv.3 Road to ボキャ大富豪
僕は文を書くのは嫌いじゃないのですが
語彙がとてつもなく乏しいのです
音楽ライブの感想を演者の方に伝えるとき
「楽しかった!」しか出てきません
僕はその「楽しかった!」に全ての思いをブチ込んでいますが、相手からしたら薄っぺらく感じてしまうかもしれません、困りました
本もあまり読みません
高3のときに読んだ数少ない中の1冊
V=E=フランクル著 『夜と霧』
(原題 : ある心理学者、強制収容所を体験する)
(はてなブログの様々な機能に慣れるために
Amazonのリンクを貼ってみました)
かなり有名な本ですが、
ナチスの強制収容所での実体験を心理学の観点から解いていくという内容で、
非常に簡単な表現で読みやすいので、
気になった方は是非読んでみてください
話は逸れましたが、小説なども読みません
を読もうとしましたが、中々頭に入らない…
でも他の本を読むなら、まずこれらを読みたい…
そして、小説よりも専門書(主に哲学、といっても読んだのは数冊)の方が好みで、つまり、表現の幅が増えないのです
ボキャ貧→ボキャ大富豪への道
というわけで、とあるシーンを、尽くせる限りの表現で伝える努力をしようと思います
お付き合いください
今回のテーマは
「朝ごはんに目玉焼きを食べた」
これに挑戦してみます
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6月中旬。
不愉快な電子音が一定のリズムを刻み、部屋の中に鳴り響く。
この瞬間、世の中が7:00になったことを悟る。
今日もまた起きてしまった、と思う。
これは、毎日が辛いからではなく、これから身体を起こさなければいけない、という煩わしさである。
脳は起きているが、身体はまだ眠っていると自分に言い聞かせ、瞼を擦ることなくスマートフォンを手探りで探し、音量ボタンを押して、不快な音に終止線を引く。
部屋が静寂に戻る。
安堵とともに、一時停止しておいた夢の再生を図る。
長い読み込み時間も終わり、いざ再生されようとしたとき、再びあの不快な音が響き渡る。
ダ・カーポだった。
同じ手順により不快音を止めるわけだが、昨晩追記したD.C.の文字を消した。
不意に瞼が開いた。先ほどの苛立ちはない。
手探りで再びスマートフォンを手に取り、画面を点ける。
11:21
萎えた。また、午前を潰してしまった。
仕方なくゆっくりと起き上がり、リビングへと向かう。
リビングに着くと、焦げ茶色のダイニングテーブルに置いてある日清のカップラーメン醤油味を手に取り、古い給湯器からお湯をいれ、ソファーへと向かう。
今日の朝ドラを見るためにテレビを点けた。
ブルーレイレコーダーが起動する間の数秒間、NHKの衆議院の予算委員会が流れる。共産党の志位和夫氏がドイツのクルツ・アルバイトという制度をパネルを使いながら説明をしていた。なぜ、このシーンを覚えているかというと、「ドイツ人はなぜ、1年に150日休んでも仕事が回るのか」という本を読んだ直後であり、クルツ・アルバイトがその本の中に出てきたからである。
ブルーレイレコーダーが起動され、朝ドラ「エール」を再生した。僕の夢と違って読み込みが早い。冒頭の主題歌が流れ終わったとき、カップラーメンの蓋を開け、麺が適当な硬さになっていることを確認して、一口目を食らう。少し硬かったが、至福だった。怠惰なりの幸せとは、まさにこれだと、麺と共に噛み締めた。
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目玉焼きを食べ損ねました。
書き出したときは、本当に目玉焼きを食べるつもりだったんです。これは本当です。
筆(という名のフリック)が止まらず、気づいたらカップラーメンを食べていましたが、後戻りは出来ませんでした。
またいつか、目玉焼きに挑戦するか、あるいはお題が頂けたならそれに挑戦してみようと思います。
追記 : ダ・カーポが書いてあっても、その前に終止線を引いたから、わざわざD.C.を消さなくても良かったね、別の表現にすればよかった!
Road to ボキャ大富豪
To be continued...
Lv.2 小さな親切の日
6月13日は小さな親切な日らしい
"小さな親切 is 何" と思った僕は、
それについて考えてみることにしました
結論から言えば
人の為の間接的な無償の行動 = 小さな親切
なのだと思います
①
あなたが電車に乗っていたとして、
目の前のお年寄りの方に席を譲りました
おばあさんはあなたに「ありがとう」と言い、
あなたはおばあさんに「お気になさらず」と言った
②
電車が駅のホームに着くとき、車内から先頭におばあさんが立っているのが見えた
予めあなたは席を立ち、おばあさんがそこに座った
①も②もあなたの行為は本質的に変わりないけど、
厚意が相手に伝わるか否か、という点で異なる
そして小さな親切とは、後者
(勿論 ①と②に優劣はない、どちらも素敵!)
ではなぜ、「親切の日」ではなく
「小さな親切の日」なのだろう
これは完全なる主観だけど、
小さな親切の方が、若干心が清くなる、気がする
ゴミ拾いボランティアに参加して
「良いことしたー!」っていう気持ちと
道に落ちてる空き缶をゴミ箱に捨てたときの
「良いことしたー!」っていう気持ち
後味が若干違う、気がする
後者の行為は、以後自分の中に秘められ、
完全なる見返りなし、称賛なしの行為を自ら行ったことに若干の誇りを覚える
ちなみに僕の場合、はっきりと誇りを覚える
誇り、というと印象がよろしくないけど
「良いことしてるぜ〜!」って気持ちが自分をとても良い気分にさせる
小さな親切の方が「無償感」が強まるからかな
あれ、てことは、「小さな親切の日」って誰のためにあるの?自分のため…?
相手は気づく術が無いのなら、感謝のしようがないし、ハートフルな気持ちになりようがない
ここで僕は②よりも①の方が、おばあさんにとって「その日のハッピーな出来事」として記憶に残ることに気付いて頭を抱えた
「小さな親切の日」を定めた人は、「小さい」と枕詞をつけることでハードルを下げていただけかもしれない。「小さいことから始めよう」という簡単な話だったのかもしれない。
もうよく分からない
でも、「小さな親切」に対する考え方は、少なくとも僕は「他人に気づかれない優しさ」として今後を生きてくことをここに誓おう、せっかく考えたし
そんなことよりも、もっとおもしろいことに気づいた
僕は、親切と言われる行為を、「自分が気分よくなるため」に行なっていたのかもしれない
本当に人のためを思ってした行為は、「良いことしたー!」って気分に果たしてなるのだろうか
思い返せば、本当に全額その人を思った行為は、後味はあまりなかったように思える
(全額の親切を大きな親切と名付ける、今決めた)
ということは、今まで数々の「良いことしたー!」経験は、自分のためだったのかもしれない
薄々、自分は偽善者かもという自覚はあったので、とても腑に落ちているし、言語化して良かったと思う
そうこうしているうちに、小さな親切の日があと1分足らずで終わってしまうので、「やらない善よりやる偽善」という言葉に逃げて、自分を正当化して(良い気分になって)、今日のブログは終わりです
Lv.1 開設の儀
はじめの言葉
これより、開設の儀を始めたいと思います。
開設宣言
開設ー!
おわりの言葉
これを持ちまして、開設の儀は終わりです。
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宣言
個人や団体が、その意見や方針を外部に対して広く表明すること。また、その言葉。
(weblioより)
これは悩みでもあるけど、
何か目標ができたときに 人に宣言してしまう
というのが僕の特徴
宣言することは、
自身が後戻りすることを阻む手段だと思う
オレ、TOEICで800点とった!
もし、800点とりたい!って宣言していたら
周りの人は努力の結果だと疑わずに
「おめでとうー!」って言うと思う
逆に、宣言していなかったら
「800点!?!?すご!!!」ってなると思う
周りの人からすれば800点と言う事実は変わりないし、両者ともに「すごい!」と思うはず
そしてどちらにせよ努力は必要である
でもそこには大きな違いがある
宣言していた場合、
「努力が人に見られる」ことがメリット
「努力家」のレッテルが貼られるわけだ!
つまり、0→10→30→50→70→90→100 といった過程を含めて尊敬されるのである
宣言していなかった場合、
「努力が人に見えない」ことがメリット
簡単な言葉で言えば「天才」に見られる
友達からすれば0→100にしか見えないからね
この人、裏でどれだけ努力したんだろう、、いや、それとも努力はあまりしてないのかな、、分からん、、分からんけどすごい…!!
なんて思われるかも
じゃあリスクは?というと
宣言していなかった場合はノーリスク
達成できなくても人は挑戦してたことを知らないし、辞めるのも自由 ノーリスク、ハイリターン
でも宣言していたら、失敗すれば少なからず恥ずかしいし、その結果もう辞めてしまったらダサいと思われてしまう つまりハイリスクだね!(人にもよるけど僕的にはハイ)
そのリスクを回避するべく人は努力する
ハイリスク、ハイリターン
人は、リスクを負った方が、頑張れる
というより、頑張るしかないのだ
冒頭で、「目標が出来たら人に宣言してしまうのが悩み」といった
それはなぜか
僕は「天才」と思われたいのだ
実は医者でした!えー!!!みたいな
サプライズ感も楽しみたい
そして、「天才なんだね!」と言われたときに
僕はこう言う
「いや、努力だよ(笑)」
かっけーーー!!!!!!!!
僕が宣言してしまうのは、自分を追い込みたいとかではなくて、ただおしゃべりなだけなのだ
だから困っている
本当は裏で隠れて努力して、結果だけ表明して
騒がれたい。ましてやリスクなんて負いたくもない。だけど言っちゃうんだ…。
一番カッコいいのは、目標達成しても誰にも言わないで、TOEIC何点?って聞かれたときに「800点だよ」と言うこと。
「聞かれたから答えている」というスタンス
でもおしゃべりな僕にはさすがに苦行である
だからまずは、僕は宣言しないタイプの人間になって裏で努力をして、天才のレッテルを貼られる努力をする
ということをここに宣言して初ブログは終わりです
最後に、僕はTOEIC800点取ってないことを記しておきます
TOEIC 800点取ることが目標です