ピラフの答案

大学生が〜暇な時間に〜つらつら〜つらつら〜

Lv.2 小さな親切の日

 

6月13日小さな親切な日らしい

 

"小さな親切 is 何" と思った僕は、

それについて考えてみることにしました

 

結論から言えば

人の為の間接的な無償の行動 = 小さな親切

なのだと思います

 

あなたが電車に乗っていたとして、

目の前のお年寄りの方に席を譲りました

おばあさんはあなたに「ありがとう」と言い、

あなたはおばあさんに「お気になさらず」と言った

 

電車が駅のホームに着くとき、車内から先頭におばあさんが立っているのが見えた

予めあなたは席を立ち、おばあさんがそこに座った

 

①も②もあなたの行為は本質的に変わりないけど、

厚意が相手に伝わるか否か、という点で異なる

 

そして小さな親切とは、後者

(勿論 ①と②に優劣はない、どちらも素敵!)

 

 

ではなぜ、「親切の日」ではなく

小さな親切の日」なのだろう

 

これは完全なる主観だけど、

小さな親切の方が、若干心が清くなる、気がする

 

ゴミ拾いボランティアに参加して

「良いことしたー!」っていう気持ちと

 

道に落ちてる空き缶をゴミ箱に捨てたときの

「良いことしたー!」っていう気持ち

 

後味が若干違う、気がする

 

後者の行為は、以後自分の中に秘められ、

完全なる見返りなし、称賛なしの行為を自ら行ったことに若干の誇りを覚える

 

ちなみに僕の場合、はっきりと誇りを覚える

誇り、というと印象がよろしくないけど

「良いことしてるぜ〜!」って気持ちが自分をとても良い気分にさせる

 

小さな親切の方が「無償感」が強まるからかな

 

 

あれ、てことは、「小さな親切の日」って誰のためにあるの?自分のため…?

相手は気づく術が無いのなら、感謝のしようがないし、ハートフルな気持ちになりようがない

 

ここで僕は②よりも①の方が、おばあさんにとって「その日のハッピーな出来事」として記憶に残ることに気付いて頭を抱えた

 

「小さな親切の日」を定めた人は、「小さい」と枕詞をつけることでハードルを下げていただけかもしれない。「小さいことから始めよう」という簡単な話だったのかもしれない。

 

 

もうよく分からない

 

 

でも、「小さな親切」に対する考え方は、少なくとも僕は「他人に気づかれない優しさ」として今後を生きてくことをここに誓おう、せっかく考えたし

 

 

そんなことよりも、もっとおもしろいことに気づいた

 

僕は、親切と言われる行為を、「自分が気分よくなるため」に行なっていたのかもしれない

 

本当に人のためを思ってした行為は、「良いことしたー!」って気分に果たしてなるのだろうか

 

思い返せば、本当に全額その人を思った行為は、後味はあまりなかったように思える

(全額の親切を大きな親切と名付ける、今決めた)

 

ということは、今まで数々の「良いことしたー!」経験は、自分のためだったのかもしれない

 

薄々、自分は偽善者かもという自覚はあったので、とても腑に落ちているし、言語化して良かったと思う

 

 

そうこうしているうちに、小さな親切の日があと1分足らずで終わってしまうので、「やらない善よりやる偽善」という言葉に逃げて、自分を正当化して(良い気分になって)、今日のブログは終わりです